集団の怖さ

法人は法律によって「人」と見なされており、人の集合体を社団法人、財産の集合体は財団法人と呼ばれている。多くの組織はたいてい人が集まって出来ているので、前者の社団法人にあたる。

その法人という集合体は性質上、個々のモラルよりも集団全体の利益を優先する「功利主義」的になる事が多い。簡単に言えば「あなた一人の犠牲で全員が救えます」的な、マイケル・サンデルの本に出てきそうな内容だ。たとえこの選択が正しいと誰もが分かる常識的な問題も、それが組織全体に不都合となれば、それは決して選ばれる事はない。

例えば会社の仕事で「そんなやり方じゃ利益が出ないだろう」と言われ、やむなく不本意な選択をする事はないだろうか。食品偽造は自分たちの生活に直接影響のある問題だが、まともにやって利益が出なければ会社は存続できず、従業員も路頭に迷う事になる。そういう事態から免れるために偽装し、食品だけに限らずあらゆる法人でそのような事が行われているのではないだろうか。

最近良く耳にする「コストパフォーマンス」という言葉も嫌いだ。まさに市場原理主義が招いた、潰し合いのための言葉ではないか。それが商品だけでは飽き足らず、人件費にまで手を出したのが派遣業務なのではないのか? 経営者はキャッシュフローだの何だの横文字を並べて、考えているのはいくらプラスになるかだけだ。それの象徴が、先日の台風で壊れて積み上げられた「使い捨て傘」の山だ。ゴミを増やす事も、経済が回転さえしていれば問題ないのだ。

こういう訳の分からない世の中も、いざ自分が集団の一員となると、集団の意思に背く事はとても難しい。まして家庭を持っていれば、なおさら波風など立てたくはないだろう。そうして何年も経つうちに環境に慣れてしまい、問題が問題でなくなり、やがて脳みその使い道は「問題を如何に問題しないか」に費やされる。

そのような「集団」が、はたして今後もずっと存在しえるのかは、やはり疑問だ。自分は様々な業種の人と接する機会が多いが、話を聞くと多くの「集団」が本来機能すべき形を保てていない。法人維持のための個人となり、それが大企業ともなればさらにマネーゲームの餌食となっている。そんな環境の中で、本当に価値ある物の生産などできる訳がないのは、誰にだって分かる。

そしてそれらの元凶は、誰かが印刷している紙切れと、それを永久に追い続けるよう設計された「法人」という名の人工人格のせいではないか? なぜ我々は、昨日より今日、より多くの洋服を売らなければいけないのか。なぜ工場で均一化された冷凍食品を電子レンジで温め、誰だか分からない人に笑顔で提供しなければならないのか。「そうやって経済を成長させる事が、あなたの未来をより豊かで幸せにするんです」って、続けてきた結果が約880兆円の日本の借金でしょ? これが崩壊してないなんて、一体どういう発想をしたら言えるんだ? いやいや、日本には金融資産が1,500兆円あるから全然大丈夫だって、所有者が国の借金をそれで賄うとでも言うのか。

調べれば調べるほど実にバカげたシステムに踊らされている事は、集団という人格の中にいると、なかなか解りづらい事なのかもしれない。東電の原発問題についても、同じような事が言えないだろうか。やれ社長は責任を取れだの、社員をバッシングだの、問題の大小こそあれ、そこを突いても本質は解決しない気がする。表面的に叩いて、それで解決した気がするだけだ。そしてメディアはその役割をしっかりと果たしている。怒りさえ収まればそれでよしとする風潮では、根本的な解決にはならない。

そういったカオスから脱却し、これから本当に豊かな環境を作っていくのであれば、今まさに個人同士の信頼関係が大切な気がしてならない。

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